はじめから
最近の僕たちは順調で多忙な活動の日々を過ごしている。
圭は指揮者としてはもちろん、作曲や編曲もあちこちから頼まれて多忙なスケジュールとなっている。
僕の方はありがたいことにあちこちからのオファーが舞い込んでいて、オーケストラのコンマスとしての仕事の他にソリストとしてコンサートや客演を依頼されてがんばっている。
僕たちの所属している桐ノ院圭交響楽団はと言うと、最初の頃こそ知名度も実績もなかったから演奏会を開くにも会場やスポンサーにも恵まれなくて、赤字スレスレなんて綱渡りのような日々だった。
でも次第に評判を得て、あちこちの音楽イベントにも呼んでもらえるようになってきた。そのおかげで全国各地を回るツアーなんてことも可能になってきたんだ。
今年のツアーは東北から北海道を数箇所回ることになっている。圭が決めたプログラムの編成は、前半で小曲を数曲とラストにチャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』幻想序曲、後半はバルトークのバイオリンコンチェルト。僕がソリストをつとめるかなりの難曲だ。
この曲の編成を発表したとき、団員さんたちの反応は様々だった。特にチャイコフスキーの幻想序曲は悲喜こもごもだったんだ。
弦部はパッセージが多くて難しい曲だから、死ぬ!と嘆いたり鬼とか悪魔とかってブーイング(圭に聞こえないように小声でだったけど)してた。
一方管楽器や打楽器はかなり出番があるから喜んだり張り切ったりしてた。
でも、練習が始まると大変だった。みんなあわせるのに苦労することになって、ずいぶんと泣き(嘆きも)が入っていたんだ。
そしてコンチェルトの方はと言うと、いつものように僕と圭とでよりよいものにしようとけんか腰で言い合っていたものだから、間にはさまれたヨッシーや団員さんたちはげっそりしていた。
でもまあなんとか圭が満足する出来になってきたから、お客さんたちに僕たちの実力が上がってきているところを知ってもらうのにはいい曲編成になったかも。
さて、ツアーのスタートは仙台の音楽祭に出演することが決まっていた。
ところが、練習の途中に変更が入ってきた。
「あちらの事務局から、第二部はチャイコフスキーのバイオリンコンチェルトに変更で、ソリストは仙台在住のバイオリニストにお願いすることにしたいと要望が来ました」
圭はいつものポーカーフェイスで団員さんたちの前で告げた。
向こうの事務局としては地元の人を使うってことで興味を持ってもらおうってことらしいけど、圭は僕の演奏をメインにして指揮を組み立てていたし、急な曲目変更ってことで不満なんだろう。
まあ、時々あることだけど。
実は僕の方にもちょうどこの日ソリストをやらなくてもいいのなら助かる事情があった。少し前にエミリオ先生から受けてもらえないか考えて欲しいという打診があったんだけど、本格的な依頼のお電話があったんだ。
僕らのツアー開始の2日前にミラノでの音楽祭にゲストとしてぜひ出演してくれないかっていうお話だった。今後の僕のイタリアでの活動にも有利だからということだったし。
オーケストラのスケジュールを優先したかったから、申し訳ないけどお断りしようと思っていたんだけど、ツアー初日のでのソリストが僕でないなら、お断りしなくてもよくなってちょっとだけほっとした。
「どうしても両方受けるとなったら、2日前なんだから急げば成田行きの便で帰国できて、仙台のリハーサルには間に合いそうだったけど、ギリギリのスリル満点のスケジュールになりそうだったからねえ。回避できてよかったよ」
「僕としては、仙台でせめて第一部のコンマスをきみにやってもらいたかったのですが」
「第一部はヨッシーのコンマスでうまく仕上がっているんだから、いじる必要はないんじゃない?」
圭は返事をしなかったけど、まあ当人も分かっているんだろう。強引な変更はなしで決定した。
今回は僕は出番無しの観客ってことで、気楽に仙台公演を聞かせてもらえることになりそうだ。
そうして、今年の東北ツアーが始まることになって、僕は一足先にイタリアへと向かった。
圭の方も前日には企画の方と会うために仙台へ向かうことになっていた。
ミラノの音楽祭ではいい出来になって何度もブラヴォーを貰った。ありがたいことに来年もお願いしたいなんて言葉を企画の方からいただいて、帰国の途についた。
で、ラッキーなことに乗り継ぎや飛行時間が予定していたよりスムースで、思っていたよりも早く仙台に到着することになったんだった。
リハーサルをする予定の練習場所へと行って圭に会えると思っていたらコンチェルトの打ち合わせがすでに始まっていた。
「リハーサルはまだ始まらないんじゃなかったの?」
リハーサル室の前にいた宅島くんに聞いてみた。
「それが、あちらのソリストさんの都合で早倒しになったんですよ。まったく、こっちの都合はそっちのけなんですから」
本来は午前中に第一部のリハーサル、午後にコンチェルトをやる予定だった。
「それじゃあ、僕が中に入って聞くっていうのもやめた方がいいね」
「そうですね。あちらさん、親方のことを敵視しているみたいですから」
今回ソリストをつとめる円藤麻里子という女性バイオリニストさんと僕とはたぶん面識はないと思うんだけど、なぜか僕に対してライバル心を燃やしているらしいんだ。
だから本番は聞いていてもかまわないけど、楽屋裏にあたるようなリハーサルの場にはいて欲しくないそうで、前からきっぱりお断りされていたんだ。
「どうして親方にきつくあたってくるのか、理由が分かりましたよ。彼女ロン・ティボーに出ているんですよ。親方と同じ1999年です。そのときは本選の二次予選で落ちて、3年後にもう一度挑戦して本選まで残ったんですが、入選で終わっていますね。
それまでほとんど無名だった親方が彗星のように突然現れて予選期日ぎりぎりで申し込んでたものだから『どこの誰その人?』って感じだったでしょう。なのに予想していなかった人物、それも日本人に横から優勝をかっさらわれたって感じなのが腹立たしいってあたりで」
「円藤・・・・・、マリコ・エンドウさんか。あーそういうことかぁ」
でも、うーん。会ってるのかもしれないけど、申し訳ないけど顔は覚えてないな。あのときは自分のことでいっぱいいっぱいだったから。
「まあ、やつあたりってことです」
「それじゃあ、よけい近づかない方がいいね。本番までまだ時間があることだしちょっと楽器店に行って来るよ。持ってきた弦の数が心細くなっていてね。本番前には戻ってくるから」
「わかりました。ボスにもそう言っておきます。ただ近くに楽器店はあったかな。ああCDショップなら駅前にあったと思いますよ。あそこならあるんじゃないかな」
「ありがとう」
駅前へと歩き出すと店はすぐに見つかった。中に入って店員さんに弦のことを聞いてみるとやはりここで扱っていたけど、残念なことに僕が欲しい弦は売り切れだった。
どうしようかな。どうしても今すぐ交換が必要ってわけじゃない。まだしばらくは使えると思う。様子を見ておいて、他の場所で買えばいいか。
そんなことを考えていたら、店員さんが声をかけてきた。
「お客様ありました!この店にはありませんでしたけど、近くのバイオリン工房に置いてあるそうなので、すぐに取りに行ってきます!」
携帯を片手にしてにこにこしていた。どうやら僕が考え込んでいる間に捜してくれていたらしい。
バイオリン工房だって?ちょっと興味があったから僕が行くことにした。店員さんを走らせるのは申し訳なかったし。
店員さんは簡単な地図を書いて説明しながら渡してくれた。
「音海バイオリン工房っていうんです。音の海って書いて『オトウミ』」
へえ。素敵な名前だ。
地図を見ながら行くと、なんとか見つけることができた。からんと軽やかなドアベルを鳴らして中に入ると、バイオリン特有の松脂やにかわの匂いがしていたし、いくつかの作りかけのバイオリンが上にぶら下がっていた。いかにもバイオリン工房って感じだ。
「あの、駅前の店でこちらにもバイオリンの弦を置いてあると聞いてきたのですが。守村と言います」
「あ、はい。聞いています。こちらのメーカーのものでいいんですよね」
店員さんは用意してあったのか、すぐに棚から弦を出してくれた。
「ああ、これです」
製作者さんにバイオリンの話を聞きたかったけど、残念ながら今は外出中なんだとか。
これで買い物は終わり・・・・・なはずだったけど、バイオリンの弦を置いてある棚にはかなりな種類の弦が置いてあったので見せてもらった。日本にあまり置いてないマニアックな種類の弦まで置いてあったから、この店の人が買い付けてきたのかも。
店員さんの勧めで作業台を借りてこの場で弦の張替えをした。
興味深そうに僕のバイオリンを見ていた彼女は、先ほどからの説明のしかたなんかを含めて、もしかしたらバイオリンを弾いているのかもと思えたけど、自分からバイオリンを弾いているとは言い出さなかった。もう弾くのをやめたのかも。だとしたら聞くのはやめておいたほうがいい。
さてとバイオリンを構えた。替えたのはG線だったからちょうどいいと、アリアを弾くことにした。
うん、いつもどおりのいい音だ。
満足感を覚えながらバイオリンを下ろしてケースにしまいこんだ。
さて帰ろうとしたところで、僕の前に立っていた彼女の異変に気がついた。
呆然と立ったままで、ぽたぽたと涙をこぼしてはじめていたんだ。
えっ、な、何?
こんなふうに泣いている女性をどうなぐさめていいのかなんて、女性と付き合ったことがない僕には経験値が足りない。とにかくあたふたとポケットからハンカチを出して差し出した。
「え?」
どうやら彼女は自分が泣いていたことに気がついていなかったらしく、ぼんやりとしたまま目の前のハンカチを受け取っていた。
でもすぐに自分の状態に気がついたようで、真っ赤になって僕のハンカチを返してきて、小さくごめんなさいと謝った。そしてテーブルにおいてあったティッシュを何枚か引き抜くと涙をぬぐっていたけど、何か僕に言いたげで迷っている様子だった。
そして、ついに彼女の口からぼろぼろとこぼれ落ちてきた言葉は自分がバイオリンを弾いていたこと、そしてやめてしまった未練と無念・・・・・。
もしかしたら僕自身がそうなっていたかもしれない、懺悔だった。
もしかしてバイオリンを嫌いになってしまった、のかな?それともまだ好き?
「バイオリンを好きですか?」
僕は思わず言ってしまった。
すると、彼女の口から出てきたのは、今も自分がバイオリンを好きだったということと、子供の頃の意地でやめてしまったことへの後悔の告白だった。
僕にバイオリンを嫌いになったことがないかって尋ねてきたので、どうして僕がバイオリニストになれたのかちょっと話した。
ああ、本当に圭と出会えていなかったら真剣にプロを目指そうなんて考えることもできなかったかも。意欲はあったつもりだけど、現実に埋もれていって、若い頃の夢だったとあきらめていったんじゃないだろうか。
僕はずいぶん自分の話をしちゃったけど、彼女にはどう響いただろうか。
でも彼女は自分の過去を僕に話したことや僕の話で何かがふっきれたみたいで、またバイオリンを弾いてみたい意欲が復活したらしかった。
彼女がまたバイオリンを手にとってくれればいいなと思う。
うん、そうだね。きっとこのバイオリン工房に勤めているくらいだから、僕との会話はちょっとした背中を押すきっかけになっただけかも。心配することはないんだろう。
僕の演奏を聞いてみたいって思ってくれたらしいし、僕も聞いて欲しいかな。
そこに突然僕の携帯が鳴りだした。
「はい、守村です。ああ桐ノ院さん。リハーサルは終わったのかい?」
圭からの電話だった。きっと僕が仙台に到着しているのに顔を出さないってすねてるんだろうと思ってたんだけど、聞いてみるととんでもない緊急の電話だったんだ。
今夜、コンチェルターをつとめる予定の円藤さんが、リハーサル後に用事で外に出て自動車事故にあったってことだったんだ。幸いにもたいしたことはなかったそうだけど、足や腰を打撲していて治療中。演奏は出来なくなったんだそうだ。
《幸いきみが仙台に到着していましたので、代役をお願いしたいのです》
「そういうことならしかたないか。わかった、引き受けるよ。そちらにすぐ行く」
ところが圭はここに迎えに来ると言い出した。街中で遭難するなんてことまで言い出したけど、前科があるでしょうなんて言われるとぐうの音も出ない。しかたなく僕はここの場所を教えて車が来るまで待っていた。
そうして、工房の彼女とおしゃべりをしていたんだけど、ついでにちょっぴり圭ののろけをしゃべったりもした。もっとも彼女は『ケイ』っていうのが男性とはわからないだろうから言っちゃったんだけどね。
しばらくして、圭本人が迎えにきたのだった。
練習場へ向かう車は宅島くんが運転していた。後部座席に乗り込んだ僕たちは、さっそく今夜のコンチェルトについての打ち合わせを始めた。
緊急事態でも、少しばかり安心だったのは今夜やる曲はミラノでも演奏したばかりの曲だったことだ。オーケストラとの打ち合わせも以前圭とやったことがあるから、それほど問題はなさそうだった。
練習場についてさっそくリハーサルをやって、すぐに本番の準備が始まった。
僕の方は第二部に登場なので、それまでは控え室で待機だ。
第一部が終わって少しすると、ドアがノックされて圭が入ってきた。僕の様子を見に来てくれたらしい。・・・・・にしては、少々不機嫌?
僕を見ながらためらっていたけど、僕が「何か問題でも?」と話題を向けると言い出した。
「先ほど、バイオリン工房の彼女とずいぶん親しげでしたね」
ああ、やきもちやきの彼のことだからずっと気になっていたんだ。
コンサートのあとに聞くつもりだったんだろうけど、気になってとうとうこの時間に聞きに来たのか。
確かに僕と彼女とのやりとりは店員と客とのものよりも親しいものだったとは思うけど。
「話しにくいようでしたらあとでもいいです」
圭が気遣ってくれるようなことは何もないから話し出した。
「あれはね、後輩バイオリニストへのエールのつもりだったんだよ。」
先ほど彼女から聞いた話を圭にもした。
彼女はバイオリニストになることをあきらめ、ついにはバイオリンを手放した。僕もプロのバイオリニストになることをあきらめていた。バイオリンを手放すことはしなかったけど、彼女のようになったかもしれないと思うと、僕の姿に重ねてしまって、身につまされるものがあったんだ。
「きみに出会えたから僕はバイオリニストになれた。でも彼女にはそんな人は現れなかったんだ」
「ですがきみはバイオリンを手放したりはしなかったでしょう?」
「…もうやめようかって考えたことはあったけどね」
あのメンデルスゾーンのコンチェルトの時だ。飯田さんにブラボーの声と拍手を投げかけられて・・・・・キレた。
バイオリンをぶん投げて壊してしまって落ち込んで、もうやめる潮時かもなんて思ったんだ。
「きみは絶対にバイオリンを手放したりなどしませんよ。バイオリニストになる夢をあきらめて絶望や苦悩を味わったきみは、より深くバイオリンや音楽を心から愛するようになっていたのだと思います。今は手放すことなどできない、むしろ半身というべき存在になっているのでしょう。ですから僕も時々嫉妬するのですがね」
「大学時代と違って、練習時間だってままならなかったんだよ?むしろ退化していたかもしれないのに」
「テクニックの面ではそういうところはあったかもしれません。ですが練習時間が足りないと言いながら手を抜くことはしていなかったでしょう?精一杯の練習をしていた。そうでなければ感動を伝えることは出来ません。ですからきみはやはりあきらめてなどいなかったのです。
僕との出会いとなったあの川原の演奏では、だから僕はあれほど感動したのだと思っています。愛情とあこがれに満ちていて、思わず涙してしまった。
それに『雨の歌』では苦労されていたのをそばで見ていましたが、必死になってもう一度手に入れた音はしっかりときみの血肉となって身についたのではありませんか?
バイオリニストになるというチャンスが巡ってきたとき、掴めるかどうかは準備が整っている者だけなのです。【天は自ら助くるものを助く】と言います。彼女はバイオリンを手放したときに、もしかしたらあったかもしれないチャンスをみずから捨てたのです」
「そう・・・・・なのかな」
「きみは僕に出会ったことでプロのバイオリニストとして成功できたと言われますが、僕の方こそきみと出会えたことで大成できたと確信しているのですよ。あのフジミでのベートーベンの第五のときです。もし出会うことがなかったら、きっと僕の音楽は綺麗に整っていても、薄くて浅薄なものになっていたと思います。自分自身の問題点に気がつくことが出来たのはきみの音楽に対する深いアプローチに接していたからだと思っています。きみに出会えたことは僕にとって最大の幸運、いや奇跡だったと思っていますよ」
「もしそうなら光栄だけどね」
「きみが彼女にエールを送りたいというのでしたら、やれることはひとつしかないはずです」
「ああ、うん。傲慢な考えかもしれないけど、僕が出来ることと言えば、バイオリニストとして更なる高みを目指して、より良い演奏を届けることだろうから。僕にはそれしかできないしね」
「・・・・・悠季」
圭の顔が近づいてきて、僕のくちびるがあたたかくてやさしい圭のくちびるにふさがれた。重ねられた体温に慰撫を与えられ、背中に回された腕が僕を力づける。
すぐにキスは深くなって恋人同士のそれにかわる。ゆっくり味わっていたいけど・・・・・、もうすぐ僕の出番がやってくる。
「も、もう、これ以上はだめ!」
ぐいっと圭の肩を押しのけると、素直に離れていった。僕は腹の奥に点きかけた熱をなんとか押し殺した。
「ええ。続きはのちほど。残念ですが家に帰ってから、ですかね」
彼はぱらりと落ちかけた前髪を撫でつけ、深呼吸ひとつで恋人から天才指揮者へと顔を変える。
こんこんとノックがされて、ステージマネージャーが『出番です』と声をかけてきた。
「いきましょうか。さあ、どうぞ」
圭はドアを開けて、僕が出るのをうながした。
きりりと背筋を伸ばして僕もステージに向かって歩き出す。
その夜のコンチェルトは出色の出来栄えとなった。
FUGAと対になった話です。 FUGAでは名前が無い(笑)彼女の視点でしたが、こちらでは悠季からの視点で書いてみました。 ちょっとのろけられて嬉しかったかも?(笑) |
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2018.12/06 UP